くろねこの涙

レーシック難民になってからの記録

東京開催の交流会申込み締切は本日23:50、そしてレーシック難民の歴史について @ Level 3.8

東京の交流会のお申し込み締め切りは本日 23:59 までです

レーシックやラゼック、RK、眼内レンズなどなどの視力矯正手術後に、何らかの後遺症や合併症を発症してしまった方や、その家族やご友人などを対象とした交流会を、2024年6月22日 (土) に渋谷駅近郊で開催します。

交流会への参加のお申し込みの期限は、本日6月9日(日)の23時59分とさせていただきます。それ以降にお申し込みがあったとしても、残念ながらお受け付けができませんので、参加を考えている方はぜひお申し込みください。

  • お子様連れも大歓迎です。人数が確定していないので、会場候補の下見にまだ行っていないのですが。もしも階段のみであった場合、ベビーカーを持ち込む方は、誰かがお手伝いをさせていただきます。
  • ガチのサングラスをかけていても、私のように右手が全く動かなくても、どんな方でも参加は可能です。
  • 会場で体調が悪くなっても、みんな同じ仲間なので、助け合うことができます。
  • その日の体調によって参加する、という方も大歓迎です。レーシック難民等の方々は、日により体調が悪かったり、その日の天気で動けない方もたくさんいます。ですので、ドタキャンがあったとしても全く問題はありません。

レーシック被害者に初期の段階から寄り添いサポートいただいた、政治家のみたに英弘先生も顔をだしてくださいます。また、時間が合えばですが、医療問題弁護団の先生も参加してくださるかもしれません。

ぜひこちらからお申し込みください

jp.surveymonkey.com

お申し込みがうまくいかない方は、私のX (Twitter)、あるいは下記のメールアドレスまで。

https://x.com/Kuroneko049

kuroneko049@gmail.com

今回は東京での物理的な開催となりますが、夏か秋頃にはZoomで遠隔地の方とも交流会ができればいいなと思っています。

手の皮膚移植手術で 私が入院していなければ、になりますが。

 

レーシック難民の歴史

2010年 : 都市伝説だったレーシック難民

このブログを見ている方はご存知だと思いますが、私は2010年に品川近視クリニック (有楽町) でレーシックを受け、その後、複数の後遺症を発症しました。

2010年当時は、レーシック後の後遺症に対する認知度は全くなく。

気のせいだろうとか、 精神的な病なのではないかとか、都市伝説なんじゃないかとか、そういう状態でした。 なので、病院を転々とする。

どこの眼科も大学病院も治療ができない、結局心療内科にまわされる。

そこで「レーシック難民」と言う単語が登場しました。

手術を受けた直後は、会社に出勤することもできず、当時あったネットの掲示板に書き込みをして。そこで初めて、私のように後遺症に苦しんでいる方々がいることを知りました。

当時の先輩たちが、東京などで交流会を行ってくださいました。
そこで初めて、私は独りぼっちじゃないと。

独りだったら、この見えない障がいを抱えて生きていく事は不可能だったと思います。
その後、レーシック被害に遭われた先輩たちの、レーシック難民を救う会に参加させていただきました。

我々は地味にSNSであったり、ブログなどで発信をし続けました。

2013年 : みたに英弘先生のおかげで、レーシックの被害が公に

我々の活動が初めて公になれたのは、みたに英弘先生の多大なる協力のおかげです。

レーシック難民を救う会などが中心になり、実際に被害に遭われた方の報告書をまとめ、2013年に厚生労働省と、消費者庁に申し入れをさせていただきました。

www.youtube.com

 

消費者庁の方々は、真摯にこの問題に取り組んでくださいました。

当時のレポートが見つからないんですが、動画はこちら。

www.youtube.com



消費者庁発表のレーシック手術に関する注意喚起


2013年 : レーシック後遺症相談ホットラインの開設、医療問題弁護団の弁護士先生方の協力

消費者庁様のご協力のおかげで、レーシック難民の存在が単なる都市伝説ではなく、実際の医療被害である事が世の中に認知されました。

それにより医療問題弁護団の先生方が、レーシックなど自費での視力矯正手術の被害に関し、電話によるホットラインを設けてくださり、実際に被害にあわれた方々の情報を収集してくださいました。

医療問題弁護団。ほぼボランティアのように、医療で被害を受けた方を救っていただいている弁護士先生の集まりです。感謝しかありません。

www.iryo-bengo.com



当時、テレビに出まくり、すべての地上波においてレーシック難民の方々が被害の啓蒙を助けてくれました。

テレビに出るなんて。

ほんとに勇気がいったかと思うんですが、ご協力してくださった方々、本当に感謝です。 また取材をしてくださった皆様、本当にありがとうございます。

kuroneko.hatenadiary.com

news.yahoo.co.jp

Yahoo!ニュースでは特集記事を取り上げてくださいました。
ここではあえて、「仕事には支障がない」と記事を変更してくださいましたが、実は仕事に支障がありありでした。

当時働いていた会社の皆様が、全力でサポートしてくださったので、本当に感謝です。

2015年頃 : 集団訴訟

当時のブログには詳細を書くことができなかったのですが、医療問題弁護団の先生方と相談の上、集団訴訟を行うことになりました。

ドライアイ、過矯正、ガイドライン違反等のグループに分かれ、被害者の方が手術をした病院に対して訴訟を開始しました。

私は品川近視クリニックでレーシックを受け、その後、過矯正になりました。それ以外にも、角膜神経痛になったのですが、当時、そのコンセプトはありませんでした。


そのため、過矯正のグループで、品川近視クリニックに対し訴訟を行いました。

集団訴訟

私の場合、勝訴の確率は高かったといえます。

なぜなら当時の問診票に私は、

「ITの仕事をしているので、近くだけが見えるように、低矯正を希望。遠くを見たり運転をする際には、眼鏡を使いたい。」

と記述していたにもかかわらず、手術をしてみたら2.0以上で遠視。
パソコンを見るところが、凄まじい後遺症で本気で病みました。

裁判までの過程は、1冊の本が書けるかと思うぐらいに大変なものでした。

訴訟に参加する皆様が、定期的に弁護士先生の事務所に集まり、今後の進め方などの協議を行いました。

特に出廷前は、毎週練習をしました。
弁護士先生と一緒に。


「法廷では、右が敵だよ。左が味方だよ。

話をするときにはゆっくり深呼吸をして。

もし被告のほうの弁護士が嫌な質問をしてきたら、罠に引っかからないように練習しよう。 被告もすごい弁護士つけてるからね。

焦ったら左が味方なんだから、左に座ってる我々を見てね。」

東京地方裁判所に出廷するときは、

仕事関連のイベントで、数千名の聴衆にプレゼンする時より緊張しました。

 

2019年3月7日 : 勝利的な和解へ

出廷を終え、最終的に私が参加したグループでは、和解を選択することになりました。その選択に対し私は全く後悔はしていません。

下記のブログに少しそのことが書いてありますので、参考までに読んでいただけると助かります。

また、勝利的和解に関し記者会見を受けましたので、その時の動画も参考までに貼り付けておきます。取材をしてくださった記者の方、本当に感謝です。

kuroneko.hatenadiary.com

www.youtube.com

当時、我々をサポートしてくださっていた、医療問題弁護団 の、ドライアイで提訴したグループのまとめサイト

医療問題弁護団

 

2024年6月 : 視力は落ちたが、見えない障がいは残る

私がずっと被害者会をボランティアスタッフとしてサポートできたのは、ひとえに被害者会を創設してくださった、被害者の先輩方のおかげです。

そして、ものすごく簡単に言うと、自分の後遺症が治っていないからです。

見えない障がいと言うのは、本当に周りにも伝えられませんし、数値化もできないので非常に困難です。

眼の奥や表面の痛み、目の見え方、ハローグレア、レーシック後に発生した身体や精神の不調、それを数値化する術はなく。

私はたまたま、外資系のみでITの仕事をしていました。

私の眼の状態については、どの会社も理解をしてくださいました。そちらに関しては感謝の言葉しかないです。

 

現在私は、熱傷事故により、両手に熱傷後瘢痕拘縮という不具合を背負ってしまいました。今は経過観察の状態ですが、このまま拘縮が進んでしまったら、皮膚移植手術をしなくてはなりません。

会社のアメリカ人の上司が

「1ヵ月の病欠休暇を、ただちに取るように」

と命令してくれました。

彼の命令がなければ、私はこの手の状態のまま、右手全体がしびれて攣りながらも仕事をしていたんだと思います。

右手は痛いです。拘縮のため時々激痛のようなこむら返りが発生します。

でもレーシック手術を受けた後のあの眼の表面の激痛に比べたら、余裕な痛みです。

とはいっても痛いし、不便極まりないですけど...

私は50代で一人暮らし、家族は海外にいて、親友や会社の人や近所の人に頼らざるには生きていけない状態です。

こんな時にパートナーとか、結婚をしていたらよかったのかなあなんて思っちゃう位。


右手が利き手なので、それが動かないって、本当に何もできません。
フィリピンの家族が紹介してくれた家政婦の方が、掃除などの私の身の回りの世話をしてくださっています。彼女がいなければ、私の自宅は孤独死の事故現場みたいになっていたことでしょう。

レーシック難民などの後遺症と違い、指の拘縮は数値化ができます。

毎回分度器のようなもので、指がどれぐらい曲げられるか、どれぐらい伸ばせるか、それを数値化できます。

周りの人も、包帯をつけた私の手を見たり、指が動かないからものを落としてしまってもそれなりに気を遣ってくださいます。
そこはレーシック後遺症など数値化ができない、痛みなど人に伝わらない病や、障がいを持ってしまった人との違いです。

 

私の手について。


別の病気で通っている信頼できる主治医の先生から、紹介状を書いていただけました。手外来がある、日本医科大学で再度診察をしてもらうことになりました。手外来だの、熱傷後瘢痕拘縮だの、漢字も読めない全く知識のない状況でしたが、

親友や友人、家族、近所の方、会社の同僚、SNSのみで知り合った方々など、周りの方々に本当に支えていただけました。

 

最悪、覚悟を決めて、お尻の皮を手に移植します (涙

全然冗談にもならないんですが、私が激怒したときには、右手の中指を突き立てて
Fxxk you, and my fingers are made by an Ass Hole
(ファック・ユー、私の指はケツの穴で作られてるんだ)
と言う宴会のネタにしかならない状態に突入します。

ということで、全く右手が使えないので、音声入力のみでダラダラと書いてしまいましたが、皆様にお会いできるのを心から楽しみにしています。

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