くろねこの涙

レーシック難民になってからの記録

人が持ち得るもの、それは絆 @Level 4.0

11月29日 (日) に開催された、レーシック難民のオンライン交流会に参加してくださった皆様、本当にありがとうございました。Zoomでの開催は初めてだったので、いろいろと不手際があったかもしれませんが、むしろZoomで開催することにより、日本全国の被害者さんが参加できて良かったです。

(あと交流会開催後に参加申し込みをいただいた皆様、申込書の締め切り終了日を設定し忘れておりすみません)

 

また、このコロナ禍で絶望的にお忙しい中、時間を割いて参加していただいた、自民党政務官みたに英弘先生医療問題弁護団の高梨先生、本当に何と感謝してよいか言葉にできないのですが、本当にありがとうございました。

都市伝説として葬られていた「レーシック難民」が、現実に被害として発生している事実であることが認識され、そして裁判までこぎつけることができたのは、本当に三谷先生と、医療問題弁護団の先生方、そして一緒に勇気を出して闘ってくださったり、声をあげてサポートしてくださった被害者の皆様...

そう、今これを読んでくださっている皆様のおかげです。

 

苦労はありました。

集団訴訟を行ったことでNHKを含めた地上波に出まくったので、誹謗中傷は、私の想像を絶するものでした。人生が歪みました。ただ私は、自分のキャリアや人生を棒にふってでも闘わなければ、今日まで生き延びることは不可能だったと断言できます。

レーシック直後に、手術を受けたクリニックの医師から言われた言葉を今でも覚えています。

「あなたは100人に1人の特異体質で、手術後にとても特殊な後遺症が出ています」

この言葉は、呪いとなりました。

 

私だけがおかしいんだ。何か遺伝子レベルでおかしいのだろうか?私の過去の経験の何かが良くなかったんだろうか?20代の時に入院したとき、治療で使用した点滴の薬が良くなかったのだろうか?特異体質ということは、もう長生きなんてできないんじゃないか?私独りが、この眼の痛みに苦しんでいて、それは私のDNAのせいなんだ。みんなと違うんだ、人間じゃないんだ。やっぱり私は違うんだ。まともな人生なんて、歩めないんだ。

 

独り。

当時住んでいた10階のマンションのベランダから、夜中、下を走る高速道路の車のテールライトを眺めているとき、

ネットに入ってきたたくさんの声。

 

私も同じです。

私もくろねこさんと同じ症状です。

私も眼の症状で仕事を休職しました。

私も眼の痛みで仕事を辞めました。

眩暈で吐いています、まっすぐ歩けません。

今、生活保護です。

もう死のうかと思っています。

 

私は決して異質ではなく、同じ症状に苦しんでいる人が居るんだと。私の頭の中で勝手に作り上げられた痛みなのではなく、実際にこれは被害なのだと。その声に私は、自分の命をもう一度授けられました。

 

当時、私が最初にネットに初めて助けを求めた時の掲示板の画像を、もう一度張っておきます。

f:id:Kuroneko773:20201226234831p:plain

レーシック手術直後に、もう今は閉鎖された掲示板に書き込んだ相談。最初に私がネットにヘルプを求めた時です。

 

youtu.be

懐かしさと絆

1990年代後半頃、私は外国の会社で、最先端の人工知能の研究チームと仕事をしていました。自然言語処理 (検索エンジンの基盤) 、感情認識 (ある音声や動画をシステムに入力して感情を読み取る)、画像認識、レコメンデーション (この音楽が好きなら、この音楽も好きでしょ? みたいな) といった分野の仕事をしていました。これらのシステムの裏側では、当時、人工知能が稼働していました。

そんな昔でも、ある程度、人工知能は人間の感情を理解することが出来ていたのです。

ただし、唯一理解できない感情がありました。

「懐かしい」と「絆あるいは同情」という感情です。どれだけ人工知能に私がティーチング (人間が先生になってガイドすること) をしても、当時の天才プログラマが徹夜でチューニングをしても、人工知能は結局その感情を理解できないままでした。

 

このコロナ禍において、その記憶がなぜかずっと頭から離れません。

私たちレーシック難民が得たこの大きな絆、それは何よりも尊いものなのかもしれません。