くろねこの涙

レーシック難民になってからの記録

2015年、明けましておめでとうございます @Level 4.3

私は毎年、家族の都合により海外で年越しをする ーー 実家が海外。

海外とはいっても日本とは全く生活習慣が異なる国で、たぶん海外旅行の行き先としては名前があがらない国だろう。貧富の格差がかなりあり、人間の命が虫けら以下に扱われる現場を目にして、複雑な気持ちになることもある。

日本では疑問にも思わなかった日常の生活や常識が...

人間はみな平等なんだとか、貧しい人や病気の人には優しくしなくてはいけないとか、便器に便座がついているのは当たり前だとか、シャワーはお湯がでるものだとか、生野菜がスーパーで手に入るのは当たり前だとか、職場で盗みをはたらいたら速攻でクビになるのが常識、バス停はバスを待つ場所で家族6名の住処にはなり得ない、子供たちは学校に通うもので労働をさせるのは犯罪だ、卵をスカートに隠して命がけで盗む人はいないだろう...

とかなんやらとか、が根本から崩れてゆく。

私は別にこの国が好きじゃない。けれど、この国に帰省?すると毎年不思議なパワーをもらえる気がする。そのパワーとかエネルギーみたいなものを、頑張って文字に書き起こすとするならば、

「世界は広い。人の数だけ色々な価値観がある。短い人生、人の目や評判を気にしている時間は無い。ふっと肩の力を抜いて生きていける場所、住処、人の輪、仕事は、自分が求め続けていたらどこかで出会えるのだから。どこででも、いきていける。」

レーシック後の後遺症に苦しみ始めてから月日だけが流れ、どこか新しいアイデアや価値観や生き方を受け入れる余裕が無くなり、自分の殻に閉じこもっていたような気がする。だって私は「障がい」があるんだから、それに治療法が無いんだから、あなたとは違う、あなたみたいに楽しむことも、生活に余裕を持つことも出来ないんだから。斜に構えないと生きていけなかったのも事実だ。

だが、レーシック被害を受けたたくさんの方が名乗りをあげ、被害の一部が集団訴訟まで持ち込まれた今、私が苦しむものは「誰にも理解されない障がい」では無くなった。ある意味、自分たちの力で自分たちの後遺症に対する認知度をあげることができたのだ。

今年は、この後遺症であり障がいを自分自身が受け入れ許し、そしてこの後遺症とともに生きていく方法を、楽しみながら寄り道しながら、見つけていきたいと思う。そして新しい価値観や方法に誰かが誘ってくれたら、ちょっとトライしてみてもいいんじゃないかと。楽しめることを探してみよう。

2015年が、このブログを訪れてくださっている方、すべてのレーシック難民にとって素敵な新しいスタートの年になりますように。そして、すべてのレーシック後遺症患者に対し、根本的な治療あるいは救済措置が実現しますように。