大切なことはきっと旅で学んだ @ Level 3.0
2016年秋、かなり遅めの夏休みをもらい、新幹線や飛行機を乗り継いで旅をした。
旅のきっかけは、前職の同僚と一緒にランチをした時、彼女から聞いた話だった。
彼女はそのプロジェクトを、当時、爆発的にはやっていた「ポケモンGo」にかけて「自腹でGo」と呼んでいた。
「私は仕事のチームメンバーに、実際に会ったことが無かったんです。」
語学が堪能で優秀な彼女は、日本から単独で仕事をしていて、彼女のチームメンバーはヨーロッパやアメリカや東南アジア圏から勤務。実際にチームのメンバーと会うことはなく、会議もSkypeなど、バーチャルな世界で行われていた。
「仕事が全く上手くいかなくなって...。だから、会社から有休をもらって自腹でチームメンバーに会いに行ったんですよ。自腹で世界を周りました。」
そうしたら、なんか世界が変わったのだと彼女は言う。
「自腹でGo、です!」
会いたい人に会うために "自腹でGo" 。
彼女の話に触発され、会いたい人に会うために、行きたかった場所を巡るために、有休をとった。
この旅のことは、一生忘れないだろう。
辛いことがこの先にあっても、きっとこの旅で出会えた風景を、何度も何度も反芻しながら、何とか一歩を踏み出せるだろう。
人は人に救われる、人は場に救われる、人は旅に救われる。
レーシック後遺症で私はたくさんのものを無くしたけれど、
たくさんの人と出会えた。
たくさんの感謝と出会えた。
たくさんの場所と出会えた。
たくさんの生活と出会えた。
たくさんの考え方と出会えた。
すべてを無くすことは無い、
誰かがこの広い世界のなかで、
私に元気を与えてくれている。
どんなにインターネットが発達しても、会議システムが発達しても、人は人に実際に会わなきゃだめだ。人は実際にその場所に佇まなければだめだ。
空気、方言、匂い、街並み、太陽の光、温もり、音、間合い、足音、困った顔、路線図、笑った顔、軽自動車、人のスピード、怒った顔、お別れのハグ、地物、市街地、車窓の緑、駅弁とビール。
旅の最後に、私のルーツである広島を訪ねた。
祖父母の墓に花をたむけ、市電に乗って原爆ドームと原爆資料館を訪ねた。
原爆ドームの前を流れる川。
祖父の兄は、灼熱地獄から逃れ、この川で亡くなった。
祖父の日記によると、毎年、原爆記念日の早朝5時、祖父はこの川に祈りに来ていた。
毎年毎年、祈りに来ては、兄の遺品を川に流していた。軍刀も流れている。
...眼をやられてしまうと、生活や自らの考え方自体も、近視眼的になってしまう。
眼の前のことを見るので精いっぱい、今日のタスクを終えるので精一杯、駅の階段を上るの精一杯、自宅に帰るのが精一杯。
余裕が無くなる。
クリスマスのイルミネーションが可愛いとか、新しい定食が増えたとか、駅の階段が綺麗になったとか、道に迷っている外国人観光客が居るとか、路地裏においしい店があるとか、同僚は私に怒っているのではなくて仕事量が多くて辛いんだとか、
見えない。
来年は物事を「俯瞰できる力」を持ちたいと思う。
余裕をもって、
周りがどのような状況なのか、
世界がどのような状況なのか、
自分がどのような状況にいるのか、
嫌いとか好きとか、
自分が思う善悪ではなく、
なぜその人がそのような発言をするのか、
それを冷静に考えられる力...。
そして筋トレするぞ!
身体鍛えるぞ!
このブログを訪ねてくださった皆様にとって、
2017年が素晴らしい年になりますように!
2017年が世界各国にとって平和な年になることを、心から祈ります。
咳喘息と薬の副作用 @ Level 3.0
今年は、眼に関して新しい治療を試すことが無かった。
6年前にレーシック手術をした時から比較すると、眼の痛みは少し楽になってきた。近視が進んだために、眼の負担が減ったのかもしれない。ただし、近視化した弊害なのか、日中の視力変動がかなり顕著になってきた。朝起きると相当近視、昼になると3~4km先にピントが合い、夜になるとすっかり鳥目。
ピントが合わずに、一点を見つめていても視界がゆらゆらする。夜に光を見ていると、星状に手足を伸ばしたハローグレアなスターバースト達が、アメーバかブラックホールみたいに膨らんだり縮んだりして、だんだん奈落の底へ突き落されてゆく。
10月後半から体調不良に悩まされていた。
咳喘息、というやつになってしまった。
会社で風邪がはやっており、うつされたかなぁ、と思ったときには38度の熱。一晩休むと熱が下がり、体調が戻ったかと思ったのに、3日後に激しい咳と高熱。今まで経験したこともないほどのひどい咳と痰。咳で寝ることができずに会社も病欠。
さすがにこれはヤバい、経験したこともない症状だということで、あきらめて病院へ。マイコプラズマ肺炎などの検査を受けるが陰性。ただの風邪だということで大量の薬をもらう。
クラリス、フコスデ、ムコソルバン、ロキソンニンにムコスタ錠!
ここからが長い。
喉が渇く!
フコスデの副作用だが、なぜか眼は楽。
しかし咳は止まらない。
また薬。
ジェニナック、アストミン、ムコサール、テオフェリン!
それでもそれでも、咳は止まらない。
夜中に咳発作が起きて、空気をもとめて暗闇でもがく。
苦しい苦しい、空気が吸えない、ここで終わるか私の人生?
さらなる検査の後に、ついた病名は咳喘息。
また薬。
アジスロマイシン、ブロンカスト、ホクナリンテープを胸に張る!
で、ここで咳以外の異変が起きた。
手が震える、イライラする、頭がガンガンする。
ホクナリンテープの副作用。
この薬は、交感神経のβ2受容体に作用して、気管支を拡張させる作用があるため、人によっては副作用が出るらしい。医者の薬剤師さんもそんな副作用を説明してくれなかった...
別の病院へ変更。
シムビコート吸引!
咳喘息に一番効く吸引薬だということだったが、これも、気管支拡張作用が入っているために精神的な副作用が起こる。とにかくイライライライラ。バズーカ砲持って、世界中を爆走したいほどの、激しい怒りみたいなもの?が湧き上がってきて、断念。
咳の薬なのに、なぜこれほど精神をかき乱されるのだろうかと悩む。
最後に、咳喘息専門の病院へ。
咳喘息はアレルギーが原因だということで、抗アレルギー薬のサイザルとキプレスという、なんだかギリシャの街みたいな名前の薬をもらうが、これが大失敗。とにかく眠い、身体が全く動かない、だるくてだるくて身体が鉛のよう。眠い眠い...キプロス島でサイザル将軍が麻のカーペットの上を行進する夢を見そうだ...。断念。
咳は結局完治していないけれど飲み薬はすべて辞めて、フルタイド吸引のみを行っている。自己判断で。
咳の薬で、こんなに精神的にアップダウンさせられるとは思っていなかったので、以上、記録にて。咳喘息の病院で、8,000円近くするアレルギー検査をした。咳喘息は、何らかのアレルギーで起こる事が多いらしい。結果は来週。
遺伝子検査なんてしてる場合じゃなかった。
アレルギー体質の人は、レーシック後遺症を発症しやすいとか、そんな関連性はあるのだろうか?
交流会に参加いただき、ありがとうございました@ Level 4.0
9月19日に行われた、東京でのレーシック難民の交流会。
参加いただきました皆様、本当にありがとうございました。思った以上にたくさんの皆様に参加いただき...それも遠方から参加いただいた方も多数いらっしゃって、本当に感謝です。
言葉で上手く表現できないのですが、水が一滴もない砂漠で遭難したときに、上空からヘリコプターで救助隊が来てくれたみたいな、そんな気持ちでした。喉が乾いてカラカラで、渡された水をごくごく飲み干すような。
...今回、何度も話題にあがったのが、「趣味や楽しみを奪われたあとにどう生きていけばよいのだろうか」というトピックでした。ドライブが趣味だった、釣りが趣味だった、アウトドアが趣味だった、球技が趣味だった、旅行が趣味だった、集まりに参加するのが趣味だった、映画を観るのが趣味だった、アメリカのドラマをがっつり観るのが趣味だった、ゲームが趣味だった、プログラミングが趣味だった...
それら、今では過去形の "魂" を取り上げられた今、どうやって明日への活力を見い出せばよいのか。
こんな身体にはなってしまったけれど、だからこそ見つけられる "新しい魂" を手探りで見つけようというのが、次回への課題となりました。
...ドライブは難しくなったかもしれないけど、歩くことはできる。世界をいっぱい旅しよう、眼は痛いままかもしれないけれど変な視界だけど視力は何とかあるし味は感じられるし風の匂いも感じられるし人と話すことも出会うこともできる。球技はできないけれど、筋トレもジョギングもできる。音楽は何万曲でも聴ける。少しずつなら本も読めるし、少しずつなら映画も観られる。日本や世界のあちらこちらに、こうやって友達ができた。いっぱいいっぱい旅をしよう、出逢おう、人にも音楽にも映画にもドラマにも絵画にも彫刻にも文学にもスポーツにも自然にも価値観にも、それこそ、魂で触れ合えるものや人に。...
そんな元気をたくさんいただきました、本当にありがとうございました。
また、お会いしましょう!
9月19日の交流会、申し込みは9/15までとなっています
レーシック、老眼レーシック、眼内レンズなど、視力矯正手術後に何らかの後遺症や合併症が発症してしまった人の交流会を9月19日に東京、渋谷駅近郊で開催します。参加申し込みの締め切りは、一応9/15までです。下記の連絡先までご連絡ください。
kuroneko049@gmail.com
すでに参加申し込みをいただいた皆様、お会いできるのを心から楽しみにしています!
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■日時 :
平成28年9月19日 (月・祝日) 12:00~15:00頃
■場所 :
東京 JR渋谷駅近郊
■会費:
2,000円~3000円程度を予定しています。
■参加希望の方は、下記のメールアドレスまでご連絡ください。
kuroneko049@gmail.com
■参加申し込み期限
できれば、9/15までにはご連絡くださいね。
■ご注意
視力矯正手術後に何らかの後遺症・合併症を発症してしまった方を対象とした交流会です。新規参加の方の場合、会の方からメンバー登録や、関連の質問をさせていただくかもしれませんが、ご了承いただけると助かります。
最終的な開催場所については、お申し込みをいただいた方に、個別にご連絡させていただいておりますのでよろしくお願いします。
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...ちょうど、この9月でレーシック手術を受けてから丸6年。術後7年目へと突入。この6年間は私にとって、全く予測せず想像もできない人生の軌道に放り込まれ、全く新しい視点でこの現実を自分のなかで再構築した期間でした。
旧みんなの党の三谷英弘先生や、医療問題弁護団の先生方のサポートを得ることができ、レーシックが100%安心安全ではない手術だということが、少しは日本国内に伝わりました。本当に「人」と「人のつながり」に救われた6年間です。
レーシック直後、目の表面の激痛と吐き気で初めてレーシック難民としてネットに助けを求めたのが、下記の書き込みです。
ドライアイで眼を開けていられません 【レーシック質問・相談掲示板】
始まりは、まさにこの時点でした。
書き込みをした当初、あまりに眼が痛くてハンドル名もまともに考えられず、愛猫が黒猫だったので、適当に「くろねこ」という名前で書き込みました。それが私の第二の名前になりました。可愛がっていた黒猫は数か月前に17歳で老衰で亡くなりました。彼女は天国へ旅立ちましたが、人生の一番つらい時期、傍で支えてくれた黒猫は私のなかで永遠に生き続けています。
今でも、レーシックを受けたことは、すさまじく後悔しています。ただ、レーシック難民になった後に出会えた人々、その人々との繋がりには、むしろ本当に感謝しています。
レーシック難民を救う会では、祝日 9月19日(月)に交流会を開催します
西日本では灼熱の日々が続き、北日本では台風が立て続けに来る、何か調子が狂う夏ですが、いかがお過ごしでしょうか?
私がボランティアスタッフとして参加している「レーシック難民を救う会」では、下記の日程で交流会を開催する予定です。レーシックおよび、老眼レーシック、眼内レンズなど、視力矯正手術後に何らかの後遺症や合併症が発症してしまった人が集まって、情報共有、そして「とにかく独りじゃない」っていう、つながりの場を提供できれば幸いです。
詳細は下記の通りです。東京での開催になってしまいますが、もしも、誰にも相談できずに独りで悩んでいる方がいらっしゃいましたら、ぜひこの機会に交流会に参加してみませんか?
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■日時 :
平成28年9月19日 (月・祝日) 12:00~15:00頃
■場所 :
東京 JR渋谷駅周辺
(人数によっては変更する可能性がありますが、その場合も、東京のJR山手線エリアで開催予定です)
■会費:
2,000円~3000円程度を予定しています。
■参加希望の方は、下記のメールアドレスまでご連絡ください。
kuroneko049@gmail.com
■参加申し込み期限
できれば9/01までにお願いしたいのですが、それ以降になってしまっても問題ありません。
■ご注意
視力矯正手術後に何らかの後遺症・合併症を発症してしまった方を対象とした交流会です。新規参加の方の場合、会の方からメンバー登録や、関連の質問をさせていただくかもしれませんが、ご了承いただけると助かります。
最終的な開催場所については、決まり次第、お申し込みをいただいた方に、個別にご連絡させていただきますのでよろしくお願いします。
つらい現状を話し合う、情報共有し合うことももちろんですが、同じ種類の悩みを抱えている者同士だからこそいろいろな話を気兼ねなく話すことができるという部分が一番大きいような気がします。この会が参加者の方々にとってまた翌日以降への活力になればと思 っています。
お近くの方はもちろん、遠方からの方もぜひお待ちしております。
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...レーシック難民になって、一番辛かったのが「孤立」だったように思います。
今まで出来ていた当たり前の事が急にできなくなる。友人の集まりにも疎遠になってしまう。光が眩しいし、眼鏡の上にオーバーサングラスをかけているから相当怪しいし、会話も眼が痛くて集中できないし、涙が飛び散るから頻繁に眼鏡のレンズ拭いてるし。
いろんな世の中の事に参加できなくなる。テレビが観れないし、仕事にも支障が出て、趣味も奪われる。本も読めないし、大好きだった車も運転できないし、映画館へ行っても眼が痛くて途中からの記憶は眼が痛くて痛くてたまらなかったことだけだし、旅行へでかけても、そもそも見え方が変だから何が綺麗だったのか良く分からない。
「ああもう嫌だ、終わりにしたい、ぎゃぁぁあ」と思ったときに、この日本のどこかで同じように苦しんで、どこかで同じ空間をともにしているであろう誰かのことを考えることで、明日への一歩が踏み出せました。
日本のどこかにいる、同じ悩みを抱えた人たちが、この機会に出逢えたら幸いです。
眼科手術不適応症候群と遺伝子検査 @ Level 3.2
現時点での私の公式な疾患名は「両眼LASIK後術後不適応症候群」となっています。
2010年9月に手術をしてから今まで、それはそれはたくさんの病名がつきました。ドライアイ、マイボーム腺梗塞、角膜神経痛、外斜位、羞明、眼瞼痙攣、調節機能障害...などなど。あれから6年近くたち、レーシックの後遺症に関する情報が良い意味でも悪い意味でも浸透して「両眼LASIK後術後不適応症候群」という曖昧なカテゴリが定着してしまったのかもしれません。
またレーシックだけではなく、視力自体に調整を行う白内障などで手術をうけた患者さんも、似たような「後術後不適応症候群」に悩まされているようです。
これらの「症候群」にカテゴライズされてしまった疾患の問題は、原因が分からない点です。「症候群」というあいまいなラベルをあえて付けることにより、医療を提供する側に対しも、あえて原因を特定したり、専門治療を提供する必要がないという逃げを与えてしまっているようにも思えます。
しかし、実際に後遺症を抱えてしまった患者本人は、「症候群」というあいまいなラベルがついたことによって新たな苦悩のスパイラルに陥ってしまいます。
なぜ多数の人が成功している手術なのに自分だけが苦しんでいるのだろう?
自分の何が悪いんだろう?
体質が悪いんだろうか?
遺伝子が悪いのだろうか?
眼以外で手術を受けた場合も、同じような後遺症が発生するのだろうか?
私だけ異常なのだろうか?
私の子孫もその遺伝子を受け取ってしまうのだろうか?
何が原因なのだろう?私だけ。
悩み始めると、きりがありません。「後術後不適応症候群」の発症のメカニズムや発症リスクの高い個体の特定ができないのですから、今後、別の器官や臓器でも同じような問題が発生する可能性があることを否定できません。
私の場合は、その「原因が分からない」という恐怖が、医療不信につながってしまいました。お医者さんから処方された薬を飲むのが怖い。必要だと言われている手術も怖い。身体にメスをいれたら、この眼と似たような痛みや後遺症がその臓器に発生してしまうのかと思うと、本当に怖い。万が一、手術が必要な病気になっても、手術は断固拒否したい。怖い。継続する痛みは怖い。
「なぜ」自分だけが不適応症候群になってしまったのか。その解が無いという事自体が、徐々に人生を蝕んでいきます。答えが無いまま、宙ぶらりんの状態で長い間据え置かれてしまうと、次のアクションをとる勇気自体が無くなってしまいます。
とにかく原因が知りたい!
そんな時に臨時収入があったので遺伝子検査というのをやってみました。「なぜ」の答えが遺伝子にあるのではないかと。まぁ、半分お遊びのつもりでやってみた結果が下記のとおりです。
遺伝子検査により、発症する確率が高いとされた疾患
遺伝子検査により、私が発症するリスクが高いと統計学的にはじき出された病気のトップ一覧です。眼の疾患か癌が上位に来るかと思いきや...
もやもや病!!脳ですか!
フェイント。
癌家系なので、大腸がんとかがトップに来るかと覚悟いたので、何とも意外な結果でした。でも緑内障も1.56倍ですね。
遺伝子検査による眼の傾向
肝心の眼に関連する遺伝子情報はというと、近視傾向にあるというだけでした。
「眼の構造(角膜の曲率)」は、大きいほど近視になりやすいそうです。それ以外は特に目立った項目は無さそうです。
全く関連性は無さそうですが、「もやもや病発症の確立が高い遺伝子を持つ人がレーシックを受けたら、後遺症を発症しやすい」というような分かりやすいデータが出てくれると助かりますが、あと数年はかかりそうですね。
注意 : 遺伝子検査を勧める記事ではありません。あくまでお遊び程度でやってみました。ただし将来、私がもやもや病にかかって腎不全で苦しんでいたら、信ぴょう性がありそうですね。
記録の力 @Level 3.0
砂を噛むような、デッドエンドの、前に大きな壁が立ちふさがっている、永遠に通勤電車に揺られているような、袋小路に迷い込んだ、倒しても倒しても敵が出てくるトンネルのような、ある日の朝に目覚めなければ本当は幸せなのかもしれない、そんな出口のない冬が続いていた。
治療はどん突き。
砂を噛むような、という形容詞がぴったりの日々。
個人的な話をしよう。
私の祖父母の話だ。
数年前に祖母が他界し、その後、祖父も100歳近くで他界した。
祖父母が亡くなった後、彼らが暮らした田舎の家を壊し、新しくマンションを建てることになった。彼らがゼロから築き上げた土地と家を、ただ壊すのはしのびないということで、祖父母が遺した品が子孫に形見分けされた。
広い田舎の家には...
その土地が、原爆で焼きつくされたその瞬間からの、すべての歴史が遺されていた。
孫にあたる私のところにも、大きな段ボールが数箱届けられた。祖父母の日記、祖父母が読んだ本、父が祖父母にあてた手紙、父の幼稚園時代の通信簿、父の絵、私が祖父母にあてた手紙、亡き母が祖父母にあてた手紙、父と母の写真、私の卒業証書と写真、永遠と続く亡き人々や忘れられた歴史。大量の資料。
まさか、これらの記録が私を助けるとは思いもしなかった。
痛みで辛い夜に、彼らの日記を1ページだけ読む。
そこには大きな字で「辛抱」と書いてある。「ただ焼け野原を歩いて、兄や姉の家を訪ねましたが、ただ土と灰でした。姉が病院に入院しておりました。しかし全身に黒い斑点が出て焼けただれ咽喉ははれあがって声は出ませんでした。姉は息絶えました。」
...私の祖父母は被爆者だ。
私は18歳のとき、彼らからすると「敵国」にあたる国へ移住した。そして、人生の大切な時期をすべてその国で過ごした。異国へと旅立つ私を見送った祖父母の複雑な心境や、その後の家族の歴史が、彼らの日記に、時には激しく、時には間接的に刻まれている。若かった私は、全く知らなかった。彼らがそんな葛藤のなか、私を送り出してくれたこと。あの笑顔の裏にあったもの。
...知らなかった、祖父母から、両親から、愛されて愛されまくっていたこと。
その記録は、砂を噛む明日を投げ出したくなった時、私の心の支えになってくれた。
私を愛してくれた人たちがいた事。いる事。
遺された記録。
ーー 私は今、集団訴訟という裁判のプロセスのなかに居る。
そこで毎回突き当たる壁が「記録」「過去の証拠」の重要性だ。18歳から移動を重ねる生活を続け、社会人になってからは、移動そのものが仕事になってしまった私だ。過去の記録を丁寧に遺すことを一切しなかった。移動のたびに過去のデータはすべて廃棄していた。
自分の過去を一切残さない生活を、COOLだと思っていた。
スーツケースひとつでどこへでも旅立てる生活、それが私なんだと思っていた。
今はそれを、ほんの少し後悔している。
記録は力、記録は証拠なんだと。
どうでもいい記録が、70年後に、誰かの明日を紡ぐことがあるかもしれないということを。
私は知らなかった。今まで。